一旦、東峰へ戻ってから守屋神社への道を下り始めました。
急坂になっているので、何度が足を滑らせてしまいました。
石碑が所々にありますが、風化していて何を書いてあるのか読めませんでした。
守屋神社裏の鳥居です。下りも1時間位かかりました。
守屋神社境内の配置
守屋山山頂側
石の祠
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社殿(床下に大きな石あり)
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社殿(拝殿?)
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鳥居・灯籠・石碑
車道側

灯籠。 「社宮司」(ミシャグジ) 「明治四十五年合祀」とあります。
この「合祀」は、明治政府が明治末期に行った
神社合祀の一環だと思います。
・神社数の推移
1881年(明治14年)の神社数 187357
1910年(明治43年)の神社数 137134
1942年(昭和17年)の神社数 109781
移転前の「社宮司」社があった場所は不明です。

灯籠。 「山王(サンノウ)」 「守屋神社」とあります。
「山王」は、山王神道の山王だと思います。
「山王神道は、天台宗延暦寺の鎮守社である日吉大社とのかかわりで
鎌倉時代後期に形成された。
日吉神にかかわる説が山王といわれるようになったのは、
中国において、中国天台宗本山の国清寺の鎮守神が
山王元弼真君であったことにちなみ、
最澄が比叡山の地主神(鎮守神)を
山王と称したことによるとされている。」
ここで、守屋神社と日吉大社がつながってきました。
しかし、なぜ守屋神社が日吉大社とつながったのか。
ここでも、三輪山が出てきます。
日吉大社の祭神は、大己貴(オオナムチ)です。
大己貴は、三輪山から迎えられました。
三輪山と守屋山は神体山であり、似ている点が多い、
ということを以前書きました。
そこから、三輪山を媒介にして守屋神社と日吉大社が
つながったのではないかと考えました。
日吉大社(祭神・大己貴) → 三輪山 ≒ 守屋山 → 守屋神社(祭神・不明)
守屋神社の祭神は、日吉大社の神かもしれませんが、
山王神道が創始されたのは、鎌倉時代後期であり、
ミシャグジやタケミナカタと比べると、新参ということになります。
よって、守屋神社創立当時からの祭神ではないと思います。
守屋神社の祭神については、後でまとめて書きます。
神社正面の鳥居には、「物部守屋神社 従六位物部連比良麿謹書」とあります。
側面には「守屋太一 敬白」。
なぜここで「物部氏」がでてくるのかは調べても分かりませんでした。
社殿(拝殿?)内部。
正面の縄に垂れ下げられている白紙が紙垂(シデ)で、儀式場の飾りです。
葉のついた木の枝(真榊?)に紙垂を垂れ下げたものもあります。
それは神に捧げる財物か、神の依り代と考えられているようです。
木の串に聖別を示す紙や布帛をつけたものは、
御幣(ゴヘイ)・幣帛(ヘイハク)・幣束(ヘイソク)・玉串(タマグシ)
ミテグラ・ヌサ・シデ・ニギデと呼びます。
ここで祭られている神は不明です。

社殿(拝殿?)裏にある社殿内には、
「奉正遷宮 守屋社」と筆書された木札が納められています。
木札の側に石が置かれていました。
正遷宮は、灯籠にあった明治四十五年合祀のことかな?
社殿の床下には、石室がありました。
大きな石が納められていますが、形状からすると石棒では無いと思います。
「社宮司」はどこへいったのか…

社殿裏を上ると石の祠がありました。
諏訪大社の摂末社を巡っていても、これと同じような祠をよく見かけました。
石の祠から木造社殿に変わっていったようです。
参考文献
『神道入門 日本人にとって神とは何か』 井上順孝 平凡社新書
『日本の民俗宗教』 宮家準 講談社学術文庫
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